ヤマニ共進丸 航海日誌

歴史

オヤジが生きている間に、よーときいときゃよかった。


共進丸の船頭の宗岡讓が歴史をご案内します。

始めて共進丸が出来たとは、戦前のごたぁあります。それ以前の祖父「宗一」の船は、「志賀丸」という船名だったそうです。
4人で共同で船を作ったけん「共進丸」になったと金光丸の俊作爺さんが言うとりました。
それを祖父の「宗一」が引き継いで現在に至ります。
その頃の鐘崎は、砂浜ばかりで、各集落にモグラ波止と呼ばれる岩を積み上げたものが有ったくらいです。
右の大きな松は、「根上り松」と呼ばれ、近在では有名な松でした。砂浜の浸食で大きな根が浮き上がった見事なものでしたが、自分が中学生の頃に火事で枯死してしまいました。
漁に出て魚がたくさん獲れ儲かった日には、昔は大漁旗を掲げて帰港し、船の上で宴が始まったそうです。
この写真は、おそらく昭和31年の鐘崎山笠のもので、中央のストローハットを被っているのが祖父の「宗一」で抱かれているのが、一歳七か月の自分です。
共進丸の船上でポーズ?をとっているのが、二代目共進丸船長の「次夫」です。
自分が産れた昭和29年前後は不漁が続き、遠くは石川県まで鰯網漁に行ったこともあるそうです。
自分が写っている中で、最も情けない顔をしている写真です。
おそらく三歳くらいでしょうか?でも、『こげーな手のかからん子供は珍しい!』と、自分が小学校5年生の時に亡くなった「ツキノ」婆ちゃんが言いよったとか…。 今では一番手がかかると、家族から言われよります。
現在は、立派なドック場が二ヵ所ありますが、自分が幼い頃は、船を係留する波止場が少なく、メンテナンスをする時や正月等で長く休む折にはロクロ(解るかな?)を使い人力で船を浜に引き上げていました。
この写真は、大漁旗が見えるので正月のものでしょう。
この写真は、おそらく昭和40年頃の自宅前の砂浜で撮ったものでしょう。
二代目共進丸船長「次夫」の子供達。
左から長男の「讓」、次男の「正人」、長女の「千恵子」です。
これはみあれ祭の写真ですが、長崎の三上造船所で作った初の自社制作鋼船の網船です。
初代の網船は、長崎県の星鹿から「白鷗丸」を中古で買ってきたもので、現在のは4代目の網船です。
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